つのぶえ巻頭言

カトリック秋田教会報より

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2024.3 希望の光であるキリストに向かって  主任司祭 飯野 耕太郎

 主のご復活おめでとうございます。
今年は暖冬のせいか雪が少なくて、雪かきの回数も昨年に比べると半分以上減ったように思います。
元旦に起きた能登半島地震で大勢の方々が亡くなり、避難生活を余儀なくされておられる方々も大勢おられます。
そして、そのために尽力されておられる方々もたくさんおられます。
 また、被災地の惨状を見てパレスチナのガザ地区の惨状と重なってしまいました。
戦争による死への恐怖、衛生環境の悪化による感染症、住居が破壊され、寒空に身を置く辛さ、電気や水が使えないもどかしさ、食料が手に入らない絶望感。
紛争地で生まれ生きていかなければならない子どもたちの悲しみや怒り。
それらを見るにつけ無力感に襲われてしまいます。
 どうか主の復活の希望が世界中の多くの人々を励まし、力づけてくださいますようにと祈らざるを得ません。
草花が芽吹くいのちの躍動を感じさせるこの季節に少しでもいのちの希望の息吹を感じることが出来ますように。
 主の復活の主日の福音書は毎年、同じところが読まれます。
ヨハネ福音書20章1節から10節です。マグダラのマリアが主を葬った墓が空であったことを、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子に走って知らせに行きます。
すると二人は走って墓に向かいます。
復活の朝は皆が走っています。
神の大きな愛に向かって走っているようです。
キリストの大きな愛に向かって走り出したペトロにとって絶望が大きかっただけに復活の出来事は強烈な体験になりました。
師を裏切った自分を暖かくつつみこむ神の愛の力強さの体験、死を超える神の力の体験。それらのものをキリストのもとに向かったが故に、彼は徐々に体験していったのだと思います。
キリストを離れては、私たちは何もできません。実を結ぶことはできないのです。
 私たちも希望の光であるキリストに向かって走っていきたいと思います。
 傷だらけの一生を地上で過ごされたイエス様は、復活後もその栄光に輝く体に、しっかりと十字架上での傷跡を残しておられました。
敗北の印以外の何ものでもない、そしてご自身にとってけっして楽しい思い出でないはずの傷を復活後のイエス様は「私であるという印として」しっかりと残しておられました。
 小神学校から大神学校まで進んだ一人の神学生が中間期をもらい社会に出ました。
そして、東京にあるシスターたちのやっておられる老人施設の仕事をお手伝いすることになりました。
彼はいろいろな人たちと出会い、良い体験を多くしました。
そんな中で彼の母親が病気になりました。
仕事の疲れや家の引っ越しが重なり眠れない眠れないと言うようになったのです。
家族で相談し、彼の職場近くの病院に入院することになりました。
彼の母親は精神的に疲れ果て、鬱病にかかっていたのです。
そして仮退院をしたある日の夕方、突発的に自らの命を絶ったのです。
家族の驚きと落胆は言うまでもありませんでした。
亡骸を囲んで泣き明かしたと言います。
何日たっても悲しみの痛みは消えません。
そんな中に彼や彼の家族と共に歩み、励ましてくれた何人かの人たちがいました。
そして彼の母ため、家族のために手を置いて祈ってくれたそうです。
その時、痛みが消えたと言います。
傷跡は残りましたが、不思議と痛みが消えましたと。
彼はその時、神様が触れて癒して下さったと感じました。「あなたがたに平和があるように」。痛みを背負い戸に鍵をかけて隠れていた弟子たちに投げかけたあの同じ言葉をまた、彼
にも復活し今も生き働いておられる主は投げかけてくれたのです。
それ故、彼は悲しみのどん底から立ち直ることができたのです。
そして、神学校に戻り、司祭になって今年で40年を迎えることができました。
司祭は弱さを持ちながらキリストの手となって奉仕することができます。
聖霊と共に洗礼を授ける手、ホスチアをキリストの御からだに変え、信徒に与える手、罪を赦し、病む人を慰める手、夫と妻を結び合わせる手、それはとても尊いことなんだと思います。

 秋田教会で奉仕してくださった永山誠神父様が1月29日71歳で帰天されました。帰天される数年前からは病気になり昨年後半からは寝たきり状態になりました。
今まで奉仕していた手が、今度は奉仕される手となりました。
とても辛い状態だったと思います。
けれども十字架につけられたキリストも同じでした。
今までできていたことが何もできなくなるという事は辛いことですが、そのような病気をかかえている人たちの気持ちが分かるということはおおきな恵にもなり得たのではないでしょうか。
神父様の歩みを振り返ってみると任命を受けた時、いつもハイといってそれを受け入れていった事です。
受けたくない任命もあったと思いますが、ハイといって受け入れていきました。
ですから、何もできなくなった時、それさえもハイといって受け入れていかれたのだと思います。
キリストと共にキリストのうちに、栄光は父と子と聖霊に、初めのようにいまもいつも世々にアーメン。
栄光は父と子と聖霊に捧げるために私たちは召されています。
神父様はベットを祭壇に司祭の手であるご自身をキリストと共に捧げていかれたのだと思いました。
それは司祭の手の完成形となりました。復活の主は言われます。
「あなたの信仰があなたを救った」。
信じたと通りになりますように。
私たちもそれぞれの歩みの中で、主に信頼しながら、主と共に歩んでまいりましょう。
復活なさった主はそばにいて力づけて下さいます。
良き時も良いと思えない時もすべてを良きに変えて下さるのは主ですから。
皆さん、主のご復活おめでとうございます。

 


飯野耕太郎

2024年03月02日

2023.12 主のご降誕を祝うにあたって  主任司祭 飯野 耕太郎

 主のご降誕おめでとうございます。
今年を振り返って見る時、悲しいことが多かったように思います。
私たちの周りにも悲しい事が起こりました。
7月の秋田大雨災害、被災された方々は今も心に重いものが残り思い出したくない方もおられるかもしれません。
また、冬に向けて家の修繕が追い付かず不安を抱えておられる方もおられます。
そして、世界に目を向けるとロシア・ウクライナの戦争が影を落とし、たくさんの人が毎日死んでいるにもかかわらず停戦の見通しも未だたたないでいます。
そして、新たに起こったイスラエルとハマスとの戦争、罪のない民間人、子どもや女性、お年寄り、病人の方々が大勢犠牲になっています。
どうして人間はこんなにも愚かで悲しい生き物なのかと叫びたくなります。
幼子の誕生もかつてこんなどうしようもない世界の有様の中で静かに起こった出来事だったのかもしれません。
けれども、クリスマスは皆の心を温かくする不思議な力がありました。
 「降誕祭、クリスマス、ヴァイナハット、ノエル、ラズジュストヴォ、世界のあらゆるところで誰が強制するわけでもないのに、多くの人が、共に祝い、共に歌い、共に祈り、共に礼拝する。
降誕祭には愛があり、和解があり、希望がある。私たちの心をもう一度上に向ける希望がある。」(鈴木正久牧師)。
 幼子の誕生は共に祝いたくなる不思議さが確かにあります。
幼子のことを「みどりご」とも言います。「みどりご」の「みどり」という言葉からは、平和、やすらぎ、元気などが連想され、明るく生き生きした子どもたちの姿が連想されます。
英語のgreenは、grassやgrowと同じ語源を持っているそうです。
古今東西を問わず「みどり」という言葉から、自然、成長、若々しさ、さわやか、健康等「生命」をイメージすることが多いようです。
では、植物の葉はなぜ緑色なのでしょうか?

この問いかけに、以前天王みどり学園の校長だった橋本雅之先生がこのように説明されていました。
「植物は太陽の光を吸収し、光合成により成長します。
太陽からの可視光線は、波長の短い紫色から波長の長い赤色まで広がっています。
その中で最も強い光は、緑色です。
ところが、葉はあえてこの緑色を光合成に使わずに反射し、赤と紫色の弱い光の部分を吸収しています。
だから葉は緑色に見えます。もし、植物が利己的ならば、光をすべて吸収し葉の色は真っ黒になったはずです。
植物は、自分の繁栄ばかりではなく、自分の取り分を小さくして他の動植物に光を分け与え、「共生」する道を選んだことになります。」と。
この話を聞いて感動したことがありました。
 幼子イエス様はインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれると聖書は記しています。
神は共に生きてくださる方なのです。
植物が共生の道を選んでいるのも神の望みにハイといって生きているように人類も神の呼びかけにノー、と言うのではなくハイと言える回心の道を歩みながら、共に生きる道を選択しなければいけないのだと思います。
クリスマスはそのことを私たちに教えています。
 クリスマスの朗読の中に天使が現れて羊飼いたちに告げる場面があります。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」と。
まるでポエムのように天使が現れるのです。
クリスマスが伝えているのは、目に見える物質の世界は、目に見えない霊的な世界と結びついているということをいいたいのだと思います。
現代人は何でも物事をいつの間にか科学的に見てしまうことに慣れてしまいました。
科学では解明できないことがこの世のなかにはたくさんあるのに目に見えないものを大切にする宗教を忌避するようになりました。
「現在の人間は多くの恩恵を受けているが、近代科学的な方法や考え方ですべてのことがわかると思いこむと、そこには大きい危険があり、心の問題や、たましいのことがまったく忘れ去られることになる。」(「心の深みへ」河合隼雄・柳田邦男)。
また、目に見えるものは目にみえないものと結ばれていることを「サンタさんは本当にいるんですか?」ということを問いかけた子どもの質問にニューヨークの記者が、目に見えない世界には、どんなに力があっても、こじ開けることができない、カーテンみたいなものがかかっていて、それをあけることができるのは素直な心とか寄り添う気持ちや誰かを好きになる心だけが、そのカーテンを開けることができて、その向こうのすごく奇麗で、素敵なものを、見たり描いたりすることができる。
というようなことを述べていました。
目に見えないものは目に見えるもの繋がっていることをもっと大事にしていかなければいけないと思います。
クリスマスの出来事はその事を、また、改めて私たちに教えてくれているようにも思い
ます。
目に見えない神が目に見える姿で私たちの世界に来て下さいました。
そして、私たちがどのように生きたら良いかを教えてくださいました。
人は共に助け合って生きるように造られたこと。
そして、私たちを愛して下さる父である神にいつも目を向けて生きていくように招かれているということです。
いのちはそのように用いてこそ輝くものである事を十字架と復活を通してイエス様は示して下さいました。
神の愛がぎっしり詰まっている主の降誕。
幼子イエス様を喜んで私たちの心に迎えましょう。
「私たち一人ひとりがその存在を全面的に肯定されているということ。
私たち一人ひとりは私たちを超えたものによって癒され、生かされているということ。
だから、弱さや失敗や罪にもかかわらず、それらを持ちながら生きていっていいのだということ。
神のいのち、赦しは、わたしたちの罪よりも大きいことを安心して信じていいのだということ。
それが、今日のクリスマスのメッセージであります。」
皆さん主のご降誕おめでとうございます。



飯野耕太郎

2023年12月02日

2023.8 聖母マリアの祝日の祝い方  主任司祭 飯野 耕太郎

 現在ローマ・カトリック教会が定めている聖母マリアの祝日は11あります。
その他、5月の聖母月、10月のロザリオの月と月単位でも祝われています。
 それは諸聖人の中でも群を抜いた回数ですし、また、私たちに身近な母としていつも寄り添っておられることを表している数のようにも思えます。
 そして、第二バチカン公会議文書の典礼憲章(103)は次の3つの点から聖母の祝日を祝う私たちの態度を教えています。
①聖母の祝日は、キリストの過越しの神秘(受難・死・復活)の中に統合されているということ。
つまり「聖母は切り離すことができない絆によって、神の救いのわざに結ばれている」方であり、それぞれのマリアの祝日は、キリストの救いのみわざのある部分を表しているということです。
②は聖母がご自分の固有の信仰の歩みにおいて、神のあがないの実りとなったことです。
「あがないの最も優れた実り」とも言われています。
③は神のみ摂理に自らを委ねたマリアの希望に学ぶこと。
 そして、マリアのうちに、自分が完全にそうありたいと欲し、希望しているものを、喜びをもって見つめる(観想する)ことを教えています。
 私たちの喜びも悲しみもマリアのように希望をもって受け入れ神様のみ業の完成(神の国の完成)に役だたせていただけますようにマリア様の模範と取次を願いましょう。
 次に、マリアの祝日である聖母の被昇天が8月15日に制定されたことですが、歴史的に次のように言われています。
 5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。
 この死去は、マリアが天に召されたことを永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されたようです。
 やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ教皇セルジオ1世(在位687~701)は、復活徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。
 マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。
 こうして1950年のピオ12世の教義宣言に至るまでマリア信心の深まりと同時に、次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。
 8月15日は日本にとっても忘れられない日となっております。
 それは、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しミサを捧げた日でもあり、第二次世界大戦が、終結した日本の終戦記念日でもありました。
 戦後の日本はその後、平和憲法9条に守られ、人を殺すことも殺されることもありませんでした。
 平和と希望の母である聖母マリアに、私たちは教会や日本国の現在と未来を託してまい
りましょう。
 多くの弟子たちが怖れで振るえていた、生まれたばかりの教会が結束を保持ち得ていたのは 御子への全幅の信頼を持って聖母が希望を植え付けてくれていたからです。
 私たちもこの希望に支えられながら自分のおかれた場所でいたわりの心と平和への思いを強めてまいりましょう。



飯野耕太郎

2023年08月01日

2023.3 聖土曜日の霊性  主任司祭 飯野 耕太郎

 主のご復活おめでとうございます。
今年の冬は昨年と比べ雪は少なかったのですが、とにかく寒かったですね。水道管が凍って司祭館のお風呂が数日使えなかったこともありました。
ですから春の陽射しが少しずつ強まっていくのを楽しみに待っていました。
 また、コロナ感染症も五月には五類になり、緩和されていくそうですが、高齢者の死亡が毎日のように出ているのも気になるところです。
用心しながら、教会活動も再開していこうと思います。
 そして、ウクライナでの戦争は一年が過ぎました。
いつまで続くのでしょうか。
毎日、多くの方々が亡くなっています。
一日のびるごとに無益な血が流されていきます。
指導者たちの心に和平への思いが強まり、平和への道が開かれますように祈り
続けたいです。
 ところで、私たちは聖なる過ぎ越しの3日間の典礼の中で今、復活祭を迎えました。
聖金曜日はイエス様が、十字架にかかった日です。
日曜日は主のご復活をお祝いします。
聖土曜日は夜には復活徹夜祭が始まりますが、墓に葬られている日中の土曜日は意外と見過ごされています。
最近読んだ本の中に、聖土曜日の霊性という表現が出て来てハットさせられました。
それは1953年生まれのコーネル・ウェストという黒人神学者の言葉です。
黒人が400年に亘る苦難のなかで培ってきた霊性をそう呼んでいます。
金曜日とイエス様が復活した日曜日の朝。
その二つの時の間にいつ終わるとも知れない暗い時を意味しています。
その辛い、苦難に耐えがたい聖土曜日に、自らに問うてほしいという願いがあります。
あなたはそんな中で、どんな人間となりたいのか。
どんな人間になることを選びたいのか。
という問いです。
憎しみを受け続け、いのちを脅かされ続けたなかでも、愛を選びとっていく霊性、それを土曜日の霊性と呼んでいます。
土曜日は自分の在り方を決める日ともいえます。
ですから、土曜日とは、同時に金曜日でもあり、日曜日でもあるのです。
私たちが、起き上がるための力それが土曜日の霊性です。
ハレルヤという言葉も単純な日曜日の賛美ではなく、土曜日の痛みに根差した賛美に繋が
っていきます。
痛みの中に復活の喜びが隠されているのでしょう。
「誰も知らないこの苦しみを」というゴスペルソングがあります。
次のような内容の歌詞です。
「誰も知らないこの苦しみを。
誰も知らない。
イエスの他には。
誰も知らないこの苦しみを。
グローリーハレルヤ!」
十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたイエ
ス様、そのイエス様なら私たちの苦しみを知ってくださる。
だから、グローリーハレルヤといえるのでしょう。
また、復活なさったイエス様には5つの傷跡がありました。
その痛みの傷を抱えたまま家に隠れている弟子たちに現れてくださいました。
聖金曜日、聖土曜日の痛みに根差した日曜日だったのです。
私たちも聖土曜日を大切にして良いのだと思います。
困難を抱え希望の見えない時、高齢となり記憶力も低下し、これから先どうなっていくのかという怖れと不安に陥っている時、それでも私はイエス様の復活を信じて委ねて生きていこうと決断する時、それはまさしく聖土曜日の霊性を頂いている証なのです。
恐れるな。
私はいつもあなたがたと共にいる。
とイエス様は仰いました。
聖霊のお恵みを願いながら私たちがいつも愛に根差した思いを選び取っていくこと
ができますように。
アーメン・ハレルヤ。
主はまことに復活された。
飯野耕太郎

2023年03月18日

2022.12 主のご降誕おめでとうございます。 主任司祭 飯野 耕太郎

 コロナ感染症拡大から2年と10カ月、まだ続いています。その間、ロシアのウクライナ侵攻という事態が起こり、現在も戦争が継続中。核の脅威の中、毎日、たくさんの人が亡くなっています。そして、世界には国民を弾圧している国が複数あります。如何に多くの人が正義と平和を希求している事か。そんな中で迎える降誕祭。戦時中、クリスマスを迎えた、サレジオ会のK神父様がその時の情景を小冊子の中に記しておられました。少し紹介します。
「灯火管制」の中、聖堂の窓を光が漏れないように黒布で覆い、夜中の12時、グレゴリアンのミサが始まったといいます。天空には、神の栄光を歌う天使たちの声と競い合って、B29の爆撃機が飛んでいます。説教は「平和」についてです。戦争と平和を同時に体験したそうです。戦争を挑む人間がいて、その横に人間となって人間を救おうとする神がいた。これは矛盾なのか。実に、キリストは私たちの平和ですと。このクリスマスのミサを一生忘れることはないと。書いておられました。
 今、苦しんでおられる人々、悲しみの中におられる人々、絶望の中で立ち上がれなくなっている人々、これらの人々のためにイエス様はこの世に誕生してくださいました。キリストの平和の光がこれらの人々の心に灯されますように、願い祈りたいです。
 イエス様は、この世にいと小さき者として誕生してくれました。そこで命の誕生ということを少し考えてみました。人類の始まりをたどっていくと20万年ほど前にアフリカで生まれた少数の人たちにたどりつくそうです。ホモサピエンスと言われる人々です。ホモサピエンスがチンパンジーから分かれるところに何らかの働きがあったのでしょう。そこに神様の働きを見ることができるのではないかと思います。祖先をこうしてずっとたどっていくと、38億年も前の大昔に生まれた一個の細胞にたどりつくと言います。
そして、海の中でこの細胞は生まれました。命の始まりです。 地球上の生きとし生けるものはこの38億年前の一個の細胞から生まれたらしいのです。そう考えると地球上の生き物は皆、仲間といえます。また、人間の命の始まりは一個の細胞、受精卵です。細胞は体をつくる一番小さい単位です。誕生の際には3兆個もの細胞になっていると言います。また、精子が卵子にたどり着くまでの距離は人間が太平洋を泳ぐ距離に匹敵すると言います。 仮に日本列島の東海岸に1億人が、横一列に並んで、一斉に海に飛びこんだとします。アメリカ西海岸に向かって泳ぎ、一人だけがたどり着き卵子に遭遇できたという話です。それが私の命、あなたの命だとしたら、それはまさに奇跡だといえるでしょう。命の誕生はまさに奇跡の誕生といえます。
 イエス様は、この命をどのように用いたら生き生きできるかを教えてくれました。泊まる場所がなく飼い葉おけに寝かされたイエス様。自分は食べられる為に生まれてきたことをシンボル的に示してくれています。つまり自分を他者に提供していくこと、自分の能力、時間、体力、お金等々を、自分のためばかりではなく、他者に分かち合う時、命は輝くことを教えてくれています。私たちの命は互いに生かし合うため、助け合うために用いていくべきなのです。地球上の生きものは皆、仲間なのですから。まさにキリストは私たちの平和です。この平和が私たちの心にしっかりと生まれ根付きますように。教皇フランシスコは、神が人間の幸せを願う親のような存在であることを強調しています。「神は、責任を感じています。わたしたちの幸せを望み、わたしたちが幸福で、喜びと平和に満たされているのを見たいのです」と。いただいている命を神の望まれる方向に用いてまいりましょう。一日も早い戦争の終結を願って。「朝が来てまた朝が来る平和かな」。

2022年12月03日
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