主のご復活おめでとうございます。
今年の冬は昨年よりも雪の量が多く、寒い日が多かったように思います。
雪かきも大変だったことでしょう。
雪国に住んでいると特に春の訪れが待ち遠しく感じられます。
そして梅や水仙、桜が一斉に咲き誇る春がやってくると嬉しさがこみあげてきます。
この時季に主のご復活をお祝いできることは嬉しい限りです。
桜の花が人を引き付けるように、主のご復活の日曜日は今まで来れなかった信徒の皆さんを教会に引き付ける力があります。
死で終わらない、永遠のいのちがあることを新たに心に刻むことができるからでしょう。
聖書に復活したイエス様が弟子たちに現れる場面で、八日目に現れたとよく表現されます。
この八日目に関して今は亡き松永久次郎司教様が次のように云われております。
「八日目とは、七日を含むけれども、七日を超えるという意味があります。
私たちはこの地上で七日間生活しているけれども、本当は八日目というお恵みの世界があり、私たちの七日の生活は本来、八日目に方向づけられているのだ。
私たちの人生は七日間の繰り返しであるけれども、最後は八日目に、いつまでも続く永遠の世界にはいるのだ。
こういう信仰を表すための日が日曜日なのです」(祈りと秘跡)と。
その為、私たちは、主の復活を祝うため日曜日にごミサに与ります。
そして、そこから力を頂くのです。復活なさった主が、主の復活を信じないトマスに現れる場面があります。
そこにも八日目が出てきます。
「さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。
それからトマスに言われた。『あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。
信じない者ではなく、信じるものになりなさい』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。
イエスはトマスに言われた。
『わたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである』」(ヨハネ20章26~29)と。
復活なさった主の手とわき腹には傷跡が残っておりました。
私たちの長い人生を考える時、誰でも大なり小なり心に生傷があったり、傷跡が残っていることがあることでしょう。
病気をして、手術すれば体に傷跡が残るように心にもそれらのものがあっても当然です。
傷の痛みは消えても傷跡は残ります。
十字架の苦しみを思い出すだろう傷跡をイエス様は、ご自分のしるしとして大切にされました。
そしてその傷跡を弟子にお見せになるだけではなく、触れて見なさいとも言っておられます。
復活なさったイエス様の傷跡は人に癒しとゆるしを与える祝福の傷跡になっていました。
わたし事で申し訳ないですが、私は小神学校から神学校に入りましたので、このままエレベータのように上に上がっていくことに不安を感じておりました。
今では許されないことですが、大学卒業後、院長神父様にお願いして中間期を頂いて社会に一年間出させて頂きました。
そして、東京にあるシスターたちの老人施設で働かせて頂きました。
50名の利用者がある特別老人ホームでした。
とても新鮮で、充実した経験をさせて頂きました。
色々な人との出会い新しい発見も多くありました。
そんな中、温厚で優しく社交的な母が夜眠れないと言うようになりました。
仕事の疲れや父親の仕事も変り、また、家の引っ越し等も重なったことが負担だったと思います。
そこで、家族で相談し私の職場近くの病院に入院させてもらうことにしました。どうも、精神的に疲れうつ病になっていたのです。
そして、病院から仮退院したその日に突然、自らのいのちを断ってしまいました。
家族の驚きと落胆は言うまでもありません。
母の気持ちを全然、理解できていなかったと後悔しました。
霊安室の亡骸を囲んで泣き明かしました。
葬儀が済み何日たっても悲しみと痛みは消えませんでした。
そんな中、家族と共に歩み、励ましてくれた人たちがいました。
そして、母の為、家族の為に祈ってくれました。
私も祈りの集いの皆さんが、私の肩に手を触れて祈ってくれました。
その時、身体中が熱くなり、不思議に痛みが消えたのを感じました。
まるで復活なさったイエス様が私に触れ癒して下さったかのように感じました。
その時、神学校に戻って司祭になり、初ミサで母の為にごミサを捧げようと決心しました。
復活なさったイエス様は確かに今も働いておられるのを感じました。
でも、痛みは消えましたが、傷跡は残りました。
しかし、この傷跡を大切にしていこうと思いました。
復活なさったイエス様の傷跡は人に癒しとゆるしを与える祝福の傷跡になっていったように、わたしもこの傷跡を温めながら用いていけたら母も喜んでくれるだろうと思うようになりました。
復活なさった主は八日目に「あなたがたに平和があるように」と痛みを背負い、戸に鍵をかけて隠れていた弟子たちに投げかけたあの同じ言葉を、私にも投げかけて下さったのです。
それ故、失意の悲しみから立ち上がることができました。
この傷跡を何年も心の中であたためました。
そして、ある時、ある教会で分かちあわせて頂きました。
同じ痛みを経験した仲間がいたのです。
分かち合ったことでそこに深い絆が生まれました。
叙階されて初ミサを家族が所属していた鶴見教会で捧げさせて頂きました。
丁度、日曜日の福音の箇所が、一粒の麦の箇所でした。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章4)。
それは丁度、母の葬儀の時に読まれた聖書の箇所と同じでした。
きっと天国から母も喜んでくれたのだと感じました。
八日目は誰にでも訪れます。そ
れは私たちの人生で復活した主との出会いの日になるのです。
司祭に叙階されて今年で41年目、69歳になりました。
有難いことに、心身ともに今が一番元気なような気がします。
主任司祭定年(75歳)まで後6年、自分に残された最後の仕事を果たしていきたいと思います。
主はまことに復活された。アレルヤ。主のご復活の喜びが皆さんの上にありますように。